第1章:今日はボルシチの日

 ピピピ……、ピピピ……、ピピ……。

 目覚まし時計の無機質な電子音が、朝の爽やかな静寂を破ってしまった。
 それまで、穏やかな眠りの中にいたわたしは、いきなり現実の世界に舞い戻されて、陰気な気分で目を覚ました。
 この世で一番不快な音があるとしたら、目覚まし時計の音の他にないんじゃないだろうか?
 そんなことをぼんやりとした頭で考えながら、わたし、美島早苗(みしまさなえ)はシーツの中から伸ばした手で目覚まし時計を止めた。

「ふあぁぁ……あ……」
 高校2年生の女のコとは思えぬ大あくびをして、わたしはベッドから這いずり出た。それは、ホントに這いずるという表現がぴったりくるほどで、イモムシもかくやという格好。
 けど、そうのんびりもしていられない。わたしの朝は戦場だ。元来のお寝坊さんが災いして、登校までの時間は極端に短いのだから。
 昔の無声映画を早送りしたみたいな素早さで制服に着替えて髪をとかす。すると、『愛嬌がある』で逃げたくなるような容姿も可愛く見えるから不思議だ。
 ビバ、制服マジック!

 早速、階下に駆けて行くと、目覚まし時計にも負けないくらいの不快な声が飛んできた。
「家の中で走っちゃダメだって言っているでしょう、星条(せいじょう)の制服が泣いてますよッ!」
 あっちゃー、母上だ。
 どうやら、いつも以上にご機嫌斜めらしい。わたしは触らぬ神に祟りなしとばかりに、
「ごめんなさい、ちょっと急ぐの。今日、日直だから」
 と言い繕って、玄関から飛び出した。当然、日直というのは大うそ。

 階段からの勢いをそのままに、玄関を突っ切る。
 これで自転車を無我夢中に走らせ、我が母校である私立・星条学園に向かうのが、ここ1年以上繰り返されてきたわたしの朝のスタイルだ。
 けれど、今日の朝だけは事情が違っていた。
 ちょっとした好奇心−−それが胸を刺激した為に、あんな事件に誘い込まれるとは……。
 あの時、あんなことを思いつかなかったら……事件はわたしの上を通り過ぎ、心に強烈な印象となって刻み込まれることもなかったかもしれない。

 そして……そう、あの『学園探偵』を名乗る破天荒な少女と出会うこともまた、なかったかもしれないのだ。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 その日のペースは順調だった。
 2連休明けの月曜日だというのに人通りも少なく、彼岸を過ぎた風は爽やかだった。
 関東南部に位置するこの街も、つい先日まで残暑が勢力を誇示していたものだが、季節は確実に秋へと姿を変えつつあるらしい。
 ペダルを踏む足にも、自然と力が入る。

 学校へ着いたのは、いつもより大分早い時間だった。
 普段なら、ドアを蹴破りつつ教室へ雪崩れ込むのに、今日に至ってはその心配もない。駐輪場から悠々と校庭をよぎっていると、ふと、見慣れない建物が目に付いた。
 −−あっ、山岳部の部室……出来たんだ。
 ウチの学校に新しく設立された山岳部の部室が、休みの間に造られたらしい。
 けれど、良く見るとその部室はひどい安普請で、叩いたら壊れちゃいそうなプレハブ製だ。
 −−ま、仕方ないか。校長先生も渋々だったもんねぇ。

 わたしは、そのままそこを通り過ぎた。通り過ぎようとした。
 でも……。
 −−もしかしたら、いるかも。
 ワケもなく競り上がって来た衝動に、いつの間にか足は山岳部の部室へと向かっていた。

 周囲に人がいないのを確認してから、そっと窓に顔を近づける。けど、中は薄暗く、部室がどんな様子なのかは全くわからなかった。
 真ん中へんに何かが転がっているようだけど、人の気配は全然しない。
「はぁー、空振りか……」
 わたしが独りごちていると、背中から突然声をかけられた。
「何が空振りだって?」
「きゃあっ!?」
 柄にもなく、可愛い(?)声を上げてしまった。

「そんなに驚くなよ、傷つくなぁ」
 声の主は、不服そうな素振りでそう言った。
 真後ろに立っていたのは、わたしが探していた人……三年の二宮礼人(にのみやれいと)先輩だった。
 それほど二枚目というわけでもないが、人当たりのよさと生来の明るさで女子に人気のある人だ。無論、わたしもその一人なわけで。
「ようやく、入部する気になったのかい?」
「あ……いえ、そうじゃなくて……。部室、休みの間に出来たんだなぁって思って」
 この言葉は失敗だった。
 先輩は顔を強張らせると、わたしから視線をはずしてしまった。
「まったく、忌々しい話さ! なんだって、ウチだけ部室がなかったんだッ」
 温厚で、滅多に感情を昂ぶらせない先輩がそう言うと、何だかわたしが怒られているような気分になってしまった。
 わたしが萎縮してしまったのに気づいたのか、先輩は急に優しい顔になって、
「せっかく来たんだ。ちょっと覗いて行くかい?」
 と、言ってくれた。
 時計を見ると、HRまでそんなに時間がない。でも、こんな千載一遇のチャンスが他にある? 肯首するのに、大して戸惑いはなかった。

 二宮先輩がドアに手をかけると、それは音もなく開いて……くれなかった。
「あれ、おかしいな。開いてると思ったんだけど」
「鍵がかかっているんですか?」
「そうみたいだ。親父のヤツ、開けておくって言っていたのに」
 親父とは、この学校の校長先生−−二宮晴彦(にのみやはるひこ)先生のこと。二宮先輩は、校長先生のご子息なのだ。
「きっと、備品を持って行かれたら困ると思って、鍵をかけたんですよ」
「盗まれるようなものなんてない。まだ、何も運んじゃいないんだから」
「え……、でも」
 わたしは、窓から覗いた時に中で何かが転がっているのを見ている。備品じゃないとしたら、なんなのだろう。
 もう一度窓に寄って、部室の中を改めてみる。
 雲が太陽をさえぎった。外と室内の明るさが同じになったおかげで、視界が通るようになった。

 −−ひゅっ。
 喉から空気を吸い込む音が、耳まで聞こえた。
 そして、わたしは……とんでもない悲鳴を上げてしまった!
「な、なんだ、どうしたっ!」
 先輩が動転したように訊く。
 けれど、わたしは腕をわなわなと震わせて窓を指差すばかり。
 指先に視線を向けた先輩も、直後に凍りついた。
「た、大変だっ!!」

 部屋の……中では、人が、血を流しながら、大の字になって、倒れて、いたっ!!
 
 先輩は、すぐさま窓を開けて中に入ろうとしたが、ここも施錠されていて開かない。他の窓も試してみたが、結果は全て同じたった。
 部室は完全に施錠されている!
 ここで、映画なら『ドアを破ろう!』という話になるが、ドアなんてそう簡単に破れるもんじゃない。先輩は手ごろな石を選ぶと、窓を割って部室に侵入した。

「キミ、救急車をッ!」
「あっ、はいっ!」
 ぼーっとしていて今まで気づかなかった。
 わたしは携帯電話を取り出して、119番へ電話をした。
 しどろもどろの説明を、電話に出た消防署員は丁寧に聞き取ってくれる。よほど、この手の混乱した会話に慣れているのだろう。

 電話が終わるか終わらないかのうちに、先輩がドアの鍵を開けて出てきた。
「救急車、いま来ます……」
「そうか、ありがとう」
 先輩は無理に微笑んで言った。
「どなただったんですか?」
 先輩は、一拍置いて答えてくれた。
「……親父だよ」

 始業を告げるベルの音が、まるで死者を送る教会の鐘のように、静かに、深く鳴り響いた。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 結局のところ、わたしの遅刻はなかったことになった。というより、授業そのものがなくなってしまったのだ。
 先生たちは事件のおかげでてんてこ舞いしていて、とても授業どころじゃないらしい。

 校長先生がどうなったのか、−−生きているのか、死んでしまったのか−−が気になるところだったが、病院へ搬送されたことしかわたしにはわからなかった。
 病院には、二宮先輩が付き添っている。

 もやもやとした不安が湧き上がってくるのを必死に耐えながら、わたしは帰宅すべく駐輪場に向かった。
 しかし、そこへ向かおうとすると、どうしても部室の近くを通らなければならない。
 わたしはなるべくそっちの方を見ないようにしながら、足早に通り過ぎようとした。

 だが−−、

 部室の前で、ひょこひょこと動く人影が視界に入ってきた。
 警察関係者じゃない。この学校の女生徒だ。
 彼女は物珍しげに部室の周りを歩いていたが、やがて近くに控えていた長身の男のコ−−彼はここの生徒じゃないらしい。普通に私服を着ている−−へ、なにやら話しかけた。
「現場検証は終わっているようね。警察の見解は?」
「詳しい情報はまだない。けど、関係者の証言で現場が密室だったことから、事故って線で片がつきそうだな」
「ふぅ〜ん、密室ねぇ」
 少女は、顎の辺りをポリポリと掻いた。
 と、ふいに彼女と視線が合う。 

 わたしの鼓動が……跳ね上がった!
 その……鋭い視線。まるで獲物を見つけた猛禽類のような双眸に、わたしは一瞬たじろいだ。

 彼女はこちらへ歩いて来ると、何の前置きもなくいきなり言った。
「あなた、校長センセが倒れていた時、現場にいた2年A組の美島早苗ね?」
「……えっ!? どうして、わたしの名前を!?」
「あいつが調べてくれたのよ」
 と、彼女は男のコの方を指してみせる。彼は軽く右手を上げた。
「あたしは、九南あすか(くなんあすか)。2年G組に転校してきたばかりなの。よろしくね」
 彼女は、右手を出して西洋式の挨拶を求めてきた。
 わけもわからず、わたしは握り返す。……意外にも力強い手だ。

「でも、ここで何を? 勝手に覗いていたら、怒られるわよ?」
「ああ、ちょっとした好奇心てヤツかしら。転校早々、またこんな事件に出会えるなんて思わなかったから」
「また?」
「ん? ああ……両親の仕事柄、年中転校を繰り返してるんだけどさ、学校が変わると必ずこういう事件に遭遇するのよねぇ。その度に、名推理を働かせるものだから、付いたあだ名が『学園探偵』」
「はぁ……???」
 なんてゆーか、彼女の言い方は芝居じみていて白々しい。しかも、自ら名推理とは恐れ入る。
 大体、高校生にもなって転校を繰り返している娘なんて聞いたこともない。『学園探偵』という名前も自分で付けたんじゃないか?

 わたしが訝っていると、彼女はズイッと顔を近づけてきた。
 息が触れ合うほどの距離に、思わずわたしの顔が赤くなる。
「それでさ、ちょっと教えてほしいのよ。校長センセを発見した時の状況を」
「な、なんで……?」
「気になるからよ」
 彼女の答えは簡潔にして端的だった。
 あまり思い出したくもなかったが、断ったところでどうせまたしつこく訊いてくるだろう。仕方なしに、わたしは朝の一連の出来事を語ってみせた。

「ふぅ〜ん、じゃあホントに窓は全部閉まっていたんだ」
 わたしが語り終えたところで、彼女が言った。
「ええ。二宮先輩が開けようとしても、全然動かなかったもの。間違いないわ」
「発見した時、校長センセはどうなってたの?」
「え……えっと……血を流して倒れてたわ」
「具体性に欠けるわね。もうちょっと詳しく憶えてないの?」
 そう言われても、こっちは動転していてそれどころじゃなかったのだ。
「まぁいいわ。エイト、調べといて」
 と、彼女は長身の男のコに言う。
 エイトとは、彼の名前らしい。男のコにしてはキレイすぎる顔立ちをしているが、外国人の血が混ざっているとは思えない。どうして『エイト(8)』なのだろう?

「それじゃ、こちらも現場検証といきますか」
「へ?」
 さっさと山岳部の部室へ歩き出す彼女を、わたしは呆気にとられた視線で見送ってしまった。
「ちちちち、ちょっと! 勝手に入ったら怒られるわよッ!」
「バレなきゃ、平気よ」
「バレるわよ!!」
「いちいち細かいなぁ」 
「九南さんが、いい加減すぎるの!」
 彼女が、いきなりわたしの頭を拳でコツンとやった。
「『九南さん』じゃなくて、『あすか』。呼捨て!」
「はぁ……?」
 頭を押えたまま首をかしげる。どうにもわかりづらい少女だ。

 その時、ふと奇妙な気配を背中に感じた。
 何気に振り返ってみたわたしは……、喉も裂けんばかりの悲鳴を上げてしまった。
 そこには、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に出てくる名無しの怪物そっくりの大男が立っていたのだ!
 ……タクシーの運転手みたいな制服を着て。

「なんだ、桂木(かつらぎ)じゃない」
 あっけらかんと、あすかが言う。
「ああ、紹介するわね。あたしの専属運転手をやってる、桂木。顔は怪物みたいだけど、これでもいいとこあんのよ?」
 彼女の説明は、全然フォローになっていない。
 当の桂木さんは慣れているのか、困ったような微笑を浮かべているだけだ。

「桂木、こんな時間に何しに来たのよ。これから忙しくなるのに」
「けれどお嬢さま、本日は早めに迎えに来られるようにとのお達しでしたが」
 桂木さんは、そのルックスには全くそぐわない馬鹿丁寧な口調で言った。
「そんなこと言ったっけ?」
「はい。『今日のお昼は、アンダルコでボルシチを食べるんだから、絶対に迎えに来なさいよッ!』と、申しておりました」
「……言ったかもしんない」
 と、お嬢さま。
「ま、いっか。今日はボルシチの日にしましょ」
 意外にも、あすかはあっさりと引き下がった。

 やれやれ、ようやくわたしもこの珍無類な転校生から解放される……と思ったのも束の間、彼女はわたしの腕を取って歩き出した。
「ちょっと、ちょっと! 何するのよっ!」
「何って、あんたも行くのよ、サナエ。どーせ、もう放課なんだからお昼ゴハン食べるの」
「わたしの都合は!?」
「そんなの気にしない気にしない。さ、行こう♪」
 あすかは、いやいやをするわたしを無理やり引っ張ってゆく。エイトさんと桂木さんの哀れむような顔が視界をよぎる。どこかで猫が鳴いた。

 これが、わたしと九南あすかとの(最悪な)出会いだった。

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