第4章:また会えるといいね

 夜半に雨が降ったのか、街全体が濃霧に包まれてその日の朝は始まった。
 ねっとりと絡みつくような湿気の中、わたしは山岳部の部室の前で独り佇んでいた。

 ……果たして来るだろうか?
 昨日のうちに電話はしてある。
 もし来なかったとしても、その時はその時だ。もう、あの人に逃れるすべはないのだから。
 むしろ、問題なのはわたしの方だった。
 あの人を前にして本当に言えるのだろうか?

 あなたが、校長先生を傷つけた犯人なんです−−と。

 やがて、霧のカーテンの向こうに人影が現れた。
 それは徐々に大きくなり、輪郭が生まれ、そしてついには完全な人の形となって、わたしの前に立ちふさがった。

「おはよう」
 と、その人は言った。
「おはようございます。二宮礼人先輩」

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 二宮先輩は、微かに怯えているようだった。
 気づいているのだろうか? わたしがこれから口にする言葉の内容を。
 そうかもしれない。
 でも、もしそうなら、せめてあなたから言ってくれれば……、わたしも少しは救われるかもしれないのに。

「用があるってことだったけど……いきなりどうしたのかな?」
 先輩は、取り繕うように微笑んだ。そこには、いつもの快活さはない。
「わたし、気づいてしまったことがあるんです。先輩のことで」
 わたしは、先輩の瞳を真剣に見つめた。絶対に目を逸らしたくなんかない。
 これから言う、残酷な告白を……大好きな人に対して言わなければならない陰惨な言葉を、わたしは半端な気持ちでなんか口にしたくなかった。

「わたし、気づいてしまったんです。先輩が、この−−」
 ……事件の犯人だってことを。
 そう続けようとした矢先、朝のしじまを突き抜けて豪快な声が響き渡った。

「おっはよぉーーー! 今日はやけに早いわね、サナエ!」
 ……あいつだ。
 よりにもよって、こんな時に……。

「なぁーに、二人でこそこそやってんのよ。あー、さてはサナエちゃん、告白しようとしてんのかな?」
「違うわよッ!」
 ……いや、違わないんだけど。
「あすか、ちょっとこっち来て」
「あによぉー、いいじゃない。見ててあげるからさ」
 ぽかんとしている先輩を置き去りにして、わたしはあすかを部室の裏手に連れ込んだ。

「いい? わたしはこの事件の犯人がわかったのよ」
「へぇ、誰?」
 興味なさそうに、あすかが訊く。わたしは声をひそめて、
「二宮先輩よ!」
「なんで?」
 と、あすか。

「要するにこう。わたしと先輩が事件のあった朝、ここへ来たでしょう? その時、先輩は窓を開けようとしたけど、開かなかった。つまり、全部施錠されていたわけね。でも違ったのよ。窓は一ヶ所だけ開いていたの!」
 あすかは黙って聞いている。
「先輩は、その窓に鍵がかかっているフリをして、ワザと開けなかったのよ!! そうすることで、一見、部室は密室のように見えたってコト。そして、一緒にいたわたしを証人に仕立て上げた。つまり、この事件の犯人は先輩なのよ!」

 −−ボカッ!

 強烈な痛みが、わたしの側頭部に走った。
 あすかがわたしの頭を殴ったのだ。

「痛いじゃないっ!」
「馬鹿ね。じゃあ、部室の外にあった血痕はどう説明するのよ」
「それは、先輩が校長先生と何らかの理由でトラブって殴った時、たまたま西側の窓が開いていて、その窓からしか血痕が外に出なかったとか……」
「百歩譲ってそれでいいとして、動機は?」
「そ、それは……部室をずっと造ってもらえなかったから……」

 −−ボカッ!

「いったぁーーいっ。また叩いたぁ!」
「いい? センパイには動機なんてないのよ。紆余曲折があったにせよ、山岳部は設立されたし部室も造ってもらえた。結果として、自分の思い通りにことが進んでいるのに、どうして密室を作ってまで校長センセを傷つけなきゃなんないの。それに、毎日家で会っているんだから、わざわざ部室まで来て喧嘩する必要ないでしょが」
「そ、それはそうだけど……」
 じゃあ、さっきまで先輩が見せていた怯えたような態度はなんなのだろう。
 いや、それより……、

「先輩が犯人じゃないとしたら、容疑者はあと一人しかいないわ。鳥貝先生が犯人だったのね! 無理矢理、山岳部の顧問にされたから……って、何でそこでまた拳を握るのよ!」
「他のガッコから引き抜き受けてるのに、どーしてそれが動機になんのよ」
「え、でもそれじゃ全員容疑者から外れちゃうじゃ……」
 と、わたしが言いかけたところへ、

「どうしたんだい? ずっと二人で話し込んじゃって」
「わっ!!」
 そ、そうだった。ずっと二宮先輩を待たせてたんだ。
 先輩は、期待していたおやつを取り上げられたような当惑した顔で、こちらの様子を覗きこんでいる。

「す、すみません。あすかと校長先生の事件について話していたもんだから……」
 それを聞いた先輩は、急に明朗な表情になった、
「ああ、そうか。キミにも報告しておかなきゃね。実は、夕べ遅く親父の意識が戻ったんだ」
「えっ、校長先生の意識が!?」
「ああ。それで、事件があった時のことを全部話してくれたんだよ。それが笑っちまうようなことでさ。親父のヤツ、自分で足を滑らせて転んだんだって!」
 先輩は、そう言うと本当に笑った。

「あ、あれは……事故だったんですか?」
 わたしは、あすかを見た。
 彼女は、特に表情を動かすこともなく、先ほどの言葉を受け流している。
 もしかしたら、もう知っていたのかもしれない。エイトさんの情報収集能力は、警察並みのようだし。

「それで、オレに用事って何なのかな?」
「あっ」
 しまった。
 今更、あなたが校長先生を傷つけた犯人なんですね、なんて言えないよぉ……。
 どう言い逃れるか迷っていると、
「ごめんなさい、センパイ。あたしが来ちゃったから、この娘、気分がそがれちゃったみたい。また今度にしてもらえる?」
 と、あすかが珍しくフォローを入れてくれた。

「うん……、わかったよ」
 先輩は、肩透かしを食らったような顔でわたし達に別れを告げると、校舎へと向かって行った。

「はあー。あれだけ散々悩んだのに事故だったなんて。こんなオチってありぃ?」
 わたしは天を仰いだ。
 まぁ、現実の事件なんて案外こんなものかもしれない。
 ……あれ、でも待てよ? 事故だとすると、あの血痕はどうなるんだ?

「ねぇ、あすか。あの血痕て……」
「いるんでしょ。いい加減、出て来たらいかが?」
 あすかは、わたしにではなく、未だ立ち込める濃霧の中に呼びかけた。

 その中から、恰幅のいい男性が現れた。
 名前は、そう−−。
「おはよう、真犯人さん。いえ、香川……健二サン」

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 香川さんは、あの強面のままあすかと対峙していた。
 けれど、そこには憎悪も聳動(しょうどう)もない。厳然たる諦念があるだけだった。

「儂を呼び出したのはお嬢ちゃんか。まさか……気がついておったとはね」
「あなたしかいないのよ。あの不可解な密室を作れるのはね」
「なかなか頭のいいお嬢ちゃんのようだね。その通りだよ。儂が晴彦をあんな目に遭わせたんだ……」
「壁に血痕がなかった理由を考えれば、犯人はすぐにわかったわ。校長センセが怪我した時、壁はまだなかったんでしょ?」

「ええっ!! か、壁がなかったっ!?」
 わたしは、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「そうよ。山岳部の部室は出来たばかり。つまり、校長センセが怪我した時には、西側の壁がまだ作られていなかったのよ。だから、血痕が付かなかった。この人は校長センセを昏倒させたあと、独りで部室を建て、現場が密室だったように装ったの。あれが、全部事故だったように見せかけるためにね」
 確かに聞いたことがある。
 この程度のプレハブ製だったら、建設業者として長年の経験がある人なら独りでも短時間で組めてしまうと。

「もっとも……」
 と、あすかは続けた。
「途中までは、独りで建てたわけじゃなかったんでしょうけど」
「そんなことまで知っていたのか」
「校長センセのポケットに入っていたネジ。あれは、ここを組み立てる時に使った組み立てビスね? つまり、センセはここが建てられている時、あなたとここにいて作業を手伝っていたのよ」

「まるで、見ていたように当ててくれるな。本当にそれだけで、儂が犯人だと?」
 香川さんは苦笑を漏らした。
「決定打になったのは別のことよ。昨日ここで初めて会った時、校長センセが怪我をしたって聞いて駆けつけたって、そう言っていたわよね? でも、そんな筈はねーのよ」
「…………?」
「なぜなら、香川サンはこの事件のことを知っているはずはないんだから」

 あっ、そうか!
 わたしには、あすかの言いたいことがわかった。
 この事件のことは内密に処理され、学校側も警察と病院くらいにしか知らせていないらしい。
 部室を建てたとはいえ、関係者ではない香川さんのところへ連絡が行くはずはないのだ。
 事件を目撃したわたしと二宮先輩にも緘口令がしかれているから、生徒から伝わるということもないはず……いや、わたしはあすかにだけは喋ってしまった。
 とすると、先輩だって父親の親友である香川さんには喋ってしまった可能性だってあるのではないか?
 しかし、その疑念はあすかが一刀両断した。

「二宮センパイから聞いた? それはないわね。あの時、『坊主にも挨拶しておきたかったんだが』って言っていたでしょ? つまり、その時点で香川サンは二宮センパイとは会っていないはずなのよ。もちろん、病室から出ていないセンパイの母親とも話はしていないわよね?」
「賢い子だね……。聞いていると、そら恐ろしくなるよ」

「でも、なんで校長先生にあんな大怪我を負わせたんですか? 二人で、次の世代を担う人たちの居場所を作ってあげていたんでしょう? それなのに……」
 わたしは、衝動にかられて思わず口を挟んでしまった。

「はずみだったのだよ。あいつが、あんな話を持ち出さなければ……」
「登山部時代に遭った事故ことね」
 香川さんはハッとしてあすかを見た。
「何故、そんなことまで知っている」
「いやいや。これは、あたしの推測なのよ。校長センセが、大怪我を負って山を諦めた理由……もしかして、あなたにあったんじゃない? だから、あなたも後を追って部を辞めた。そのことが、ここを建てている時、話題になったんでしょ?」

「ああ、そのとおりだ。晴彦が雪山で命を落としそうになったのは、儂を助けようとしたからなんだよ。不注意から沢に転落してしまった儂は、自力で這い上がることが出来ぬ怪我を負ってしまったんだ。晴彦は、危険も顧みずに儂を助けようと沢を降りて来てくれた。けど、その時だ……」
 香川さんは、辛そうに瞳を閉じた。
 きっとその瞼の裏には、その時の光景がまざまざと浮かび上がっているに違いない。

「雪崩が……雪崩が儂たちを押し流したんだ……! 幸い二人とも命は助かったものの、晴彦は脊髄を圧迫骨折し、脾臓を摘出しなければならない大怪我を負ってしまった。当然、登山家への道は閉ざされてしまったんだ」
「そのことを校長先生が根に持っていたんですか?」
「それは違うッ!」
 わたしの何気ない質問を香川さんはすごい形相で否定した。

「あの日……二人でこの部室を建てている時、登山部時代のことが話題になった。その時、アイツが言ったんだ。『なぜお前まで、登山家への夢を捨ててしまったのか』と。これまで同じ質問をぶつけられてもはぐらかしていたが、その日、儂はやっと答えたよ。『お前の怪我の責任は儂にある。その儂だけが、のうのうと部を続けているわけには行かない』とな」
「…………」

「あいつは怒った。では、自分が命を賭してまでお前を助けたのは何の為だったのか、と。夢を託す者がいるからこそ、敗者は美しく去れるのだ、と。晴彦は、儂の未来に期待してくれていたのだ。それなのに……、わしは裏切った」
 ……きっと、香川さんは登山家として素晴らしい素質を持っていたのだろう。
 校長先生が憧憬を抱くほどに。
 そして校長先生は、香川さんが辿り着くであろう未来に自分の姿を重ね合わせていたんだ。

「その場で、素直に謝罪の言葉を告げるべきだったのだろう。しかし、儂らは言い合いになった。頭に血が上った儂は、部材で晴彦の頭を殴ってしまったんだ。儂は殺したと思った。びくりとも動かなかったしな。すぐに、警察か救急車を呼べばよかったものを、気が動転していたのか−−いや、保身だったのだろう。儂は事故に見せかけるために、残りを全部独りで造って、密室にしてしまったんだ」
 香川さんの唇は震えている。
 その顔には改悛の想いがありありと見て取れた。
 後悔しているのだ。自分の過ちに。親友を二度も危険な目に遭わせてしまったことに。

「儂は、大馬鹿者だ。命を救ってくれた晴彦にあんな仕打ちを……! 儂は、儂にこそ生きている資格なんてない!」
「そうでもねーわよ」
 あすかが言った。
「校長センセは、自分の不注意で怪我をしたって話しているそうよ。センセはあなたを赦しているの。昔のことを蒸し返して、あなたを追い詰めてしまったことを、センセも後悔してるんじゃないかな」
 彼女は優しくそう言った。
 それは、今まで聞いたこともないほど慈愛に満ちた口調だった。

「ありがとう……。それを聞いて、やっと決心がついたよ」
「行くのね?」
「ああ。けじめは、自分でつけなけりゃな」
「そう言うと思ったわ」
 あすかは、まるで戦友に微笑みかけるような笑みを香川さんに向けた。

「じゃあな、お嬢ちゃん方。あんたらに会えてよかったよ」
 そう言い残すと、香川さんは再び霧の中に帰って行った。

「これで、終わったんだ……」
 わたしはタメ息のように言葉を紡いだ。
「そうね」
「ああー、もう恥ずかしい! わたしってば、危うく先輩を犯人呼ばわりするところだったんだわ」
 思い出すだけで顔が火照ってくる。
 穴があったら入りたいどこか、穴を掘って埋まったまま、一生出てきたくないくらい恥ずかしかった。

「でも、なんで先輩、さっきはあんなに不安がっていたんだろ? 犯人でもないのにおどおどしちゃって」
「そりゃ、好きな娘から人気のないところに呼び出されりゃ、誰だって動揺するわよ」
「……せ、先輩は別にわたしのことなんか……」
「鈍いなぁ。だったら、なんであんたを山岳部に誘ったりすんのよ」
「それは、部員の頭数が欲しいから……」
「女子マネとして? あんな部にそんなもの必要ない、ない。要するに、センパイはあんたを近くに置いときたかったのよ」
「そ、そんなこと……」
 わたしは即座に否定しようとした。けど、出来なかった。
 あすかの推理が絶対とは言い切れないが、その言葉にわたしも心を動かされてしまったから。

「ああ、やっと陽が射してきたわね」
 見上げると、濃い霧の隙間を切り裂くように柔らかな光の筋が舞い降りて来るところだった。
 朝の新鮮な空気は、その光を反射して、いくつもの宝石を纏ったように瞬いていた。

「さぁ、行こうか」
 あすかとわたしは手を取り合って、まだ人気のない校舎に向かい歩いて行った。
 白いブラウスが陽光を浴びて輝き、クリーム色のプリーツ・スカートが風にゆっくりとはためいた。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 事件の真相が判明したその日のうちに、香川さんは警察に出頭したらしい。
 しかし、被害者であるはずの校長先生は、頑として事故説を主張。
 それに対して、香川さんも証拠を突きつけて反論するが、すべてはただの状況証拠に過ぎないと言い返される。

 結局、警察としても被害者が事故だと主張している以上、立件も出来ず、どうやらこの件はなし崩しに終わりを迎えそうだった。
 それがいいことなのかどうかはわからないけど、二人がわだかまりなく今までの友情を保てるなら、他者がクチバシを挟む権利なんかないだろう。

 で、わたしがその後どうなったっかって言うと……。
 相変わらず山岳部には入部せず、先輩は未だに勧誘を迫って来る。
 何の変化もない日常が再び戻って来てしまったようだが、わたしはそれをそれなりに楽しんでいた。

 好奇心が頭をもたげて踏み込んでしまった今回の事件だったが、特別な経験というのは日常が退屈だからこそ映えるものなのだ。
 だから、わたしはしばらくこのままでいようと思う。 
 先輩との『特別』は、もう少しあとに取っておいた方がきっと素敵なものになるだろうから。

 そうそう。例の学園探偵だが、事件が終わったあとはよほど退屈だったのか、自分で愚にもつかない騒動を起こして周囲を混乱に陥らせていたらしい。
 クラスが違うから詳しくは知らないが、桂木さんやエイトさんが事後処理に追い回されたとか何とか。

 きっと彼女の場合、特別な出来事が連続して起きても、それを素晴らしいものとして捕らえられるだけのタフな感受性があるのだろう。
 つくづく感心せずにはいられない。
 桂木さんやエイトさんは可哀相だけど。

 そのあすかが、二学期の終了と共にぷっつりと学園から姿を消した。
 G組の先生によれば、突然転校の届けを出してきたというのだ。
 ぽっかりとした喪失感が、わたしを襲った。
 あんなに迷惑がっていたのに、いなくなった途端、身体に空洞が出来た想いだった。

 けど、同時に彼女らしいとも思う。
 日常に甘んじて、日々を鬱々と過ごしているなんて九南あすかじゃない。
 きっと今頃、あの人を小馬鹿にした笑顔で事件を追い掛け回しているのだろう。

「また会えるといいね」
 わたしは、すっかり空っぽになった彼女の席に向かってそう呟いた。
 −−あんたらしくもないこと言うんじゃねーわよ。
 そんなあすかの声が、どこからか聞こえて来たような気がした。

FIN
2003.4.16


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