第1章

 僕は水辺に座り、かすかに細波の立つ水面をぼんやりと眺めていた。
 周囲には白樺が鬱蒼と立ち並び、その梢から射し入る光の帯が、水面できらきらと反射している。時々、不規則な波紋が広がるのは、魚がいるからだろう。

 ここは湖と呼ぶには小さく、池と呼ぶにはあまりにも美しい場所。
 僕の家から程近いところにあり、ほとんど人気もないこの場所は、独りで物思いに耽るには最適なところだった。
 考え事をしたい時などはここに来て、刻一刻と変わる情景を見つめながら心の中を整理すると、不思議と考えがまとまるのだ。

 僕は、ユーズド・ウォッシュされたジーパンのポケットから、一通の封筒を取り出した。
 中身はもう散々確かめた。それこそ、便箋に穴が開くんじゃないかというほどに。
 この一通の文書が、僕のこれからの生活を一変させてくれるのだ。それは、僕が長年夢見てきたことでもあった。
 言ってみれば、天にも昇る気持ち……のはずである。
 でも、釈然としない想いを抱えたまま、僕はここへ来てしまった。

(何を躊躇っているんだ……? 結構なことじゃないか。ずっと、この日を待ち続けてきたんだから)

 そう。それはわかっている。わかってはいるんだ。
 でも…………、
「あーっ、お兄ちゃん! やーっぱり、ここにいたんだっ」
 背後から、落ち葉を踏む足音と、軽やかな息遣い、そして少々ハスキーな声が届いた。
「もぉ、せっかくのお休みなのに、黙ってどっか行っちゃうから捜しちゃったじゃないか」
 と、声の主はちょっと怒ったふりをして言った。
 ぞんざいな口の利き方をするが、彼女……涼子は一応女のコ。年齢の離れた僕の妹だ。
 短く整えられた髪と、竹を割ったような性格。身長こそ低いが、スポーツならおおむね何でもこなしてしまう運動神経。そして、行動派。
 今でこそ少なくなったが、彼女がもっと小さかった頃などは、男のコに間違われることなんて一再じゃなかった。
 しかし、涼子自身が間違われることに嫌悪感を抱かなかったせいで、見事にそのまま育ちあがってしまった。
 もっとも、あと5年もしたら、とんでもない美人になるだろうと僕は信じている。
 ただし……、口さえ開かなければ。

「お兄ちゃん、良く独りでここにいるね。……もしかして私、邪魔だったかな?」
 涼子が、僕の顔を覗き込んでくる。
 ここまで走って来たのだろう。身体のほてりが、空気を通して僕にまで伝わった。
「いや、そんなことないよ。ただ、ぼんやりしてただけだよ」
 僕は、涼子に気づかれないよう、そっと封筒をポケットに戻した。
 涼子が、僕の隣にちょこんと座る。
「確かに、ここってステキなところだよね。空気は透き通ってるし、水は綺麗だし……それに私、白樺林って好きなんだ。ねぇ、お兄ちゃん。来年の夏は、またここで競泳しようね」
 この秋の空にも負けないくらい澄んだ瞳で、涼子は言う。
「競泳?」
「うん。お兄ちゃんには、いっつも負けてばっかりだったけど、来年こそは私が勝つからね。覚悟してて!」
「……ああ、そうだな」
 そう呟くように答えて、僕は心の中で密かに謝罪した。
(ごめん、涼子……。来年の夏、僕はもうここにはいないんだ……)

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

 意外と誰でもそうなのかもしれないが、僕は自分の生まれた街が好きじゃなかった。
 特に僕のふるさとであるこの街は、娯楽や流通という面でおよそ満たされているとは言えない。
 どこか、時間の流れからも見放されたような……そんな雰囲気を持つ場所だった。
 そんな土地柄であるからして、『いつか街を出て都会で暮らそう』というのが、僕ら若い世代の共通の夢になっていたのは当然のことだった。

 そしてついに、僕はこの街を出る理由を手に入れた。『就職』という正当な理由を。
 ……ある夜、僕が大学から帰ると、家のポストに封筒が刺さっていた。色気のない茶封筒。
 それは、僕宛になっている。送り主の名を確認して、僕は慌ててその場で封を切ってしまった。
 えらくいい加減に糊付けされたそれは、簡単に開封され、中から2枚の便箋が出て来た。
「受かったんだ……」
 僕は、タメ息とも感嘆とも取れる声をもらした。
 ……『就職内定通知書』
 そこには、そう書かれている。
 これは、僕が試験を受けた大手アパレル企業からの採用通知だ。
 今年、大学4年生となった僕は、晩秋となる今日まで就職活動に追われる毎日を送っていた。
 それが、この一通の文書によって終わりを告げたのである。
 そして……、
「この街での生活も……」
 そう、これで僕も巣立てるんだ。

「あれ、お兄ちゃん。帰ってたんだ」
 玄関のドアが開いて、涼子が顔を見せた。
「ちょうど良かった。夕ご飯だよ。早く入って来てね」
「あ、ああ……」
 ドアが開くより一瞬早く便箋を隠したので、きっと涼子は手紙に気づいていないだろう。
 なぜ、そんなことをしたのか、僕には良くわからなかった。本当だったら、一緒になって喜べばいいものを。
 いや、夕食の時間ならちょうどいい。そこでみんなに言おう。
 僕が居間に入ると、涼子も両親も食卓についていた。
 僕は、いつもの場所にいつものように座り、いつものようにお茶で喉を潤してから食事にありついた。
 僕の右斜め前では、涼子が猛然と秋刀魚を相手に格闘している。

 ……我が家は、自動車の整備工場だ。
 といっても従業員は父さんだけ。年にわずかの車を整備して細々と食べているような有様だ。
 でも、父さんは穏やかな人で、そんな状況でも苛立ったりせず、至ってのんびりと仕事をこなしていた。
 そんな父さんの妻であるからして、母さんも重度ののんびり屋。
 涼子を産んだ後、産後の肥立ちがよほど良かったのか、今では僕の体重を軽くしのぐほど、縦よりも横の方が大きい。
 その母さんが、食事中に切り出した。
「そうそう、お隣のユキちゃん、来年の春から東京の高校に行くんですって」
「ほう、あの子が。てっきり、ここで受験すると思っていたのにな」
 阿吽の呼吸で父さんが返す。
 隣と言っても、ここから100メートルは離れているところにある家だ。
 その家の一人娘であるユキは、僕と涼子の幼なじみ。少々、引っ込み思案なところがあるが、涼子とは妙に馬が合って、時々遊びに出かけていたりしたものだ。
 その彼女も街を出て行く……。あの話を出すにはいいタイミングだ。
「あの……」
 と言いかけたところで、涼子が不意に食事の手を止めて言った。
「みんな、だんだんいなくなっちゃうんだね」
 その言い方があまりに辛辣だったので、僕は機会を逸してしまった。
「仕方ないよ、こんな辺鄙な街だもの。……今、何か言ったかい?」
 母さんが僕に訊いてきた。
「いや……。あっ、そうだ。母さん、来週、東京に行かなきゃならなくなったんだけど、新幹線のお金くれる?」
「東京? なにしに?」
「大学の用事」
 方便だった。
「へぇ、四年生になってもそういうのがあるの」
 母さんは、大して関心がなさそうに言う。
 僕は、曖昧に返事をして食事を続けた。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

 僕は、涼子と肩を並べながら、秋の高い空を眺めている。
 そこには、僕らがどんなに手を伸ばそうと絶対に届かないくらい、高く澄み切った青空が続いていた。
「ねぇ、お兄ちゃん……。ユキちゃんはさ、私達のこととか忘れちゃうのかな?」
「……え?」
「街を出たら、私達とここで一緒に遊んだことも、この風景も……みんな、忘れちゃうのかな」
 涼子は、空から瞳をそらさずに語る。
 僕はなんとも反応できずにいた。
 日々に忙殺され、過去を振り返ることもなくなると、いつしか他愛無い遊びに興じていた自分がいたことも忘れてしまうものだ。
 今のこの時も、いつかは輪郭すらあやふやな過去となって、思い出すことすらかなわなくなるのだろう。
 僕はそれも仕方ないと思っていた。
 生きている人間の記憶力は忙しい。いつまでも、古い記憶にかかずらっている暇はないのだ。

 涼子はさらに続ける。
「でもね、たとえユキちゃんやここを出て行った他の人たちが、この街のことを忘れたとしても……私は、忘れないと思うんだ。どんなことが起きても、どこへ行っても、この景色だけは絶対に……。……お兄ちゃんと一緒に過ごした、この記憶だけは……」


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