第2章

 内定の通知を受け取ってからというもの、僕の周りで奇妙なことが起き始めていた。
 本棚から地図がなくなり、電車の時刻表も消えた。
 電化製品は次から次へと壊れ、そのたびに僕が修理に借り出された。
 父さんの血なのか、手際よく直して行く僕を見て、母さんはやけに嬉しそうだったが……。

 奇妙な思いに苛まれながらも、東京行きの日がやって来た。
 この日、僕は大学の用事で帰宅が遅くなり、駅に着いた時は午前0時を回っていた。これで、数時間眠ったらまた東京行きの電車に乗るのだと思うとうんざりするが、それも仕方ない。
 あの内定通知書には、実はこんなことも書かれていた。

『入社手続きを行います。希望する日時を事前に連絡の上、当社にお集まりください。なお、後日予定を変更される場合は、当社まで連絡を……』

 つまり、これに参加すれば晴れてこの会社の社員となれるわけだ。
 僕が東京に行くと告げた本当の理由はこれだった。
 今日の始発で出るので、今のうちに切符を買っておくことにする。
 母さんには、新幹線で行くと言ってあるが、鈍行を使うつもりだった。つまり、差額を小遣いにしようという腹積もりなのだ。
 セコイ話ではあるが、普段から小遣いというものをもらっていない身としては背に腹は変えられない。

 駅を出ると、僕はスクーターを走らせた。
 ここからさらに山道を10キロほど走らなければならない。家に着いたら、1時近くになっているだろう。
 さすがに、みんな寝ているだろうと思ったが、ガレージの明かりがついていた。
「父さん、こんな時間まで何やってるんだよ」
 ガレージでは、父さんが古いバイクを前にして座っていた。
「ああ、やっと修理が終わってな。こんな時間までかかっちまったんだ」
 それは、父さんの愛車、カワサキW−1だ。
 僕が生まれる前に造られたもので、当然、あちこちガタがきている。父さんは故障する度に直し、走り続けていた。
 そんな父さんを見て、僕は常々言ったものだ。
「そんな古いバイク、故障ばっかで面倒が多いだけだろ。新しいバイクにした方が安上がりなんじゃないの?」
 ……と。
 いつもは、ここで苦笑するだけの父さんだったが、今日は真剣な瞳でこう言った。
「お前にはまだわからんかもしれんがな、いつまでも変わらないものだからこそ価値があるんだ。その時は新しいものでも、何年か経ったら笑い飛ばされるようなものに真の価値はないよ」
「真の価値……?」
「そうだ」
 父さんは、ふっと破顔すると、
「ま、今のお前に言ってもわかるまい。でも、心の端には留めておけ」

 そのまま、ガレージの電気を消して二人で家に入った。
 去年の夏、胃をやられて、僕より10キロも体重が少なくなってしまった父さんの後ろ姿は、見るに忍びないほど弱々しかった。
 部屋に戻って東京行きの準備をしていると、涼子がノックもせずに入って来た。いつものことだが、電車の切符を手にしていた時だったので、正直焦った。
「まだ、起きてたのか」
「だって、今日は観たいテレビがあったんだもん。お兄ちゃん、お風呂入っちゃったら?」
「そうだな……。そうするか」
 本当を言うと、すぐにでも寝てしまいたかったが、そうもいくまい。
 さりげなく切符を机の引き出しに入れて、シャワーを浴びにバスルームへ向かった。

 軽く汗を流すだけにして戻って来ると、僕の部屋から出て来る母さんとばったり出くわした。
「なに?」
 不機嫌さ丸出しで僕は訊く。この年齢になってまで、部屋に無断で入られるのはご免こうむりたい。
「……ああ、なんでもないよ。もう寝たのかと思ってね」
 母さんは、そそくさと行ってしまう。
 僕はタメ息をつくと、就寝前にもう一度持って行くものの確認をした。
「ん……?」
 おかしい。
 机の引き出しに入れておいた切符がなくなっている。
 まさか……っ!
 僕が部屋を飛び出すと、廊下を歩いていた涼子とぶつかった。
「いったぁ……。お兄ちゃん、ひどいよ」
「悪い、涼子。……なぁ、電車の切符知らないか?」
「電車って言うと、ピンク色した切符? ううん、見てないよ」
 しりもちをついた涼子は、お尻を撫でながらそう答える。
「そうか……」
「ね、お兄ちゃん。この前読んでたウィンターウェアのカタログ見せて」
「は? 何もこんな時間から……」
「明日はお休みだし。ね、いいよね?」
 断られるはずがない……、そう確信している瞳で涼子は頼んでくる。
 そして、僕もこういう迫られ方をしてしまうと、つい首を縦に振ってしまうのだった。
「わかったよ。あんまり夜更かしはするなよ」
 と、一応兄らしいことを言っておいて、僕は押入れを開けた。
 ……おや、と思った。
 消えたはずの地図帳や時刻表が、こんなところにあった。昨日まではなかったはずなのに……。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「いや、なんでもない」
 狐につままれた思いで、僕はカタログを押し込んだケースを取り出した。
「お兄ちゃん、この襖……閉まらないよ……」
 振り返ると、律儀にも涼子が押入れの襖を閉めようとしている。
「そこ、傾いじまったんだよ。どいてみな」
 ケースを元の位置に戻すと、僕は床のある一点に片足で力を込め、思いっ切り襖を引いた。
 すると、涼子があれだけやって動かなかった襖がスッと横に移動した。
「体重をかけてやれば開くんだ。……って、涼子にはムリだよ」
 果敢にも再チャレンジを試みる彼女に、僕は失礼ながらも笑ってしまった。
「全然知らなかったよ、いつからなってたの?」
「昨日の地震からだよ。だから、誰も開け方は知らない。……ほら、カタログ」
「ありがと、お兄ちゃん」
 彼女は俯いたまま、何かを言いにくそうにしている。
「なぁ、涼子……」
 と、僕が言いかけた時、
「……お兄ちゃん、今年もいっぱいお出かけしようね。お兄ちゃんとの想い出は、多い方がいいに決まってるから……」
 涼子はそう言い残すと、駆けるように自室へ戻って行った。

 僕は布団に寝転がって、これまでのことを振り返ってみた。
 なくなった切符……。返って来た地図と時刻表。
 そして、壊れ続けた電化製品やその他の出来事たち。
 特に、地図帳に関しては謎だ。押入れの開け方は僕しか知らない。つまり密室状態だったのに、誰がどうやってあの中に入れたんだろう。
「いや、それより……どうやって東京へ行けってんだ。切符なしで」
 僕は、まんじりともせずに一つの夜を明かした。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

 ……結局、何の打開策も見出せないまま朝を迎えた僕は、こうして秋の空をぼんやりと眺めている。
 もう一度切符を買おうにも、そこまでのお金はない。
 いや、買う必要はないのだ。なぜなら、切符は紛失したわけではないのだから。

「ねぇ、お兄ちゃん」
 涼子が僕を呼んだ。
「お兄ちゃんは、憶えてる? 昔、お兄ちゃんに読んでもらったグリムの『木の馬』のお話を聞いて、私が泣き出しちゃったこと」
 ……ああ、そういえば、そんなこともあった。

『木の馬』は、王様から空飛ぶ木馬をもらった王子さまが、高い塔に住む女のコと仲良くなるという話だ。
 涼子が泣き出したのは、王子さまと女のコが無法者によって離れ離れにされ、木馬も取り上げられてしまったシーンだった。

「私ね、あの話を聞いて、もし私とお兄ちゃんが同じ目に遭ったらどうしようって考えて……それで泣いちゃったんだ。でも、お兄ちゃんはそんな私を見て、優しく教えてくれたよね。『大丈夫だよ。二人はこの後、何年もつらい目に遭うけど、最後は再会して幸せになるんだ』って」
「…………」
「それを聞いて、私すっごくホッとしたのを憶えてるよ。もし、私に何かがあっても、お兄ちゃんならきっと私を捜し出して助けてくれるはずだって思って……。変だよね、あれはただのお話なのに」
 涼子は、おどけたように笑う。
「涼子……」
 僕は、彼女の首に腕を回すと、自分の方へ引き寄せた。
「お、お兄ちゃん……っ!?」
 動揺する彼女にかまわず、僕はその耳元へゆっくりと唇を近づける。
「電車の切符……盗ったの、お前だろ」

 …………間。

「え、ええぇ―――――――っっっっ!!!!?????」
 素っ頓狂な声を上げて、涼子は僕を突き飛ばすように離れる。
「お兄ちゃん、私を疑ってるのっ!?」
「お前、オレが『電車の切符知らないか?』って訊いた時、『ピンク色した切符』って答えたよな? なんで、ピンク色だって知ってるんだ?」
「え……それは……」
「オレは、みんなに『新幹線で行く』って言ってあったんだぞ。新幹線の切符は青白い色をしてる。つまり、俺が鈍行の切符を買ったことを知ってるのは、それを盗んだヤツだけだってことだよ」
「そ、それはたまたま……。私、電車は鈍行くらいしか乗らないから、それでつい……」
「まっ、いいんだけどな。今日、東京に行けなかったせいで、オレの人生は真っ暗闇になっちまったけど……」
 わざとらしく、悲嘆にくれてみせる。
「で、でも……あの手紙には、連絡すれば日程を変えてもいいって……」
 と、そこまで言って、涼子は口を手で覆った。
「やっぱり涼子、あの手紙読んだんだな」
 涼子はしぶしぶ頷く。
「あの日、たまたまポストを覗いたら、お兄ちゃん宛の手紙が入ってたんだ。それは、お兄ちゃんが受けた東京の会社からで……イケナイことはわかってたんだけど……私、開けてみずにはいられなかったんだ」
 どうりで。あんな大企業にしては、いい加減な封の仕方だと思ってた。

「地図帳や時刻表を盗ったのも、電化製品壊したのも涼子だな?」
 涼子は、胸の辺りで手をもじもじさせながら首を縦に振る。
「地図とかなくなっちゃえば、東京へ行く気がなくなっちゃうんじゃないかと思って……。掃除機とか壊したのも、直せるのはお兄ちゃんだけだから……。お兄ちゃんがいなくっちゃ、私達はダメなんだって……そう思ってくれるんじゃないかって……」
 いかにも、子供らしい発想だ。
 それくらいで、大人が一度決心したことを止められるはずがない。……いや、違う。涼子は、止めるつもりでこんなことをしたんじゃない。
 本当に止めたければ、手紙を捨ててしまっただろう。
 そうしなかったのは、ただ気づいてほしかっただけなんじゃないだろうか。
 僕に、ここにいてほしいという気持ちに……。

「お兄ちゃんは、ずっとずっと前ばっかり見てた。自分の将来とか、夢とか……そういうものに忠実だった。私は、そんなお兄ちゃんが大好きで……憧れてて……。私は、お兄ちゃんみたいになりたくて、いつも後ろを追っかけてたんだよ? でも、お兄ちゃんはいつだって私の先を行っちゃって……一度も振り返ってくれなかった」
 僕は驚いた。
 涼子の言葉に。そして、彼女の涙に。
「だから、一度でいいから、私を見てほしかったんだ……。逢えなくなる前に。お兄ちゃんは、もう帰って来ないってわかってるから」
 何かを言いかけようとする僕を遮るように、涼子は続ける。
「最初のうちは帰って来てくれるかもしれない。でも、2年、3年て経つうちに、だんだん忘れちゃうんだ。私と過ごしたことも、この街のことも、みんな……。ここを出て行った人たちがそうだったみたいに」

 そんなことないよ……。
 そう否定しようとしたけど、その言葉が喉を通って声として発せられることはなかった。
 涼子の言っていることは……多分当たっている。
 僕がこの街を出たら、おそらく戻っては来なかっただろう。
 一度、都会の便利な暮らしを体験したら、こんな街での生活には耐えられない。人は、楽な方へ楽な方へと流されるものだから。
 小さく嗚咽する涼子の肩を、僕はそっと両手で包んだ。
 この時、僕ははっきりと確信した。
 僕が東京行きを躊躇っていた理由……、それは涼子の存在だったんだ。
 この気丈で、騒がしくて、明朗で、活発で、小さくて、生意気で、大切な……そう、大切な妹と僕は離れたくなかったんだ。
 でも、僕は無意識にそれを考えないようにしていた。
 考えたら、わかってしまうから。ここを出られなくなってしまうことが、わかってしまうから。

「ごめんなさい、お兄ちゃん。盗った物、みんな返すよ。だから、東京へ行って。むこうで、お兄ちゃんのやりたいことをやって……」
 涼子は笑おうとして、ちょっと失敗した。
「でも、時々でいいから。私達のことを思い出してほしいんだ。ここで過ごしたこと。涼子っていう、弟みたいな妹がいたことを……」
 僕は、涼子の頭を自分の胸に押し付けた。
「お、お兄ちゃん……?」
「いいんだ……」
「え?」
「いいんだ。一番、大切なものを失ってまですることじゃない」
 涼子が僕を見上げる。
「それって……?」
「東京へは行かない。涼子とここにいるよ」
 涼子は、まるで花が咲いたように、パッと笑顔を作った。
「ホ、ホントッ!?」
「ああ。ホントだ」
 僕がそう言うと、今度は涼子の方が抱きついてきた。
「ごめん、お兄ちゃん。ずいぶん、迷惑かけちゃって。地図も切符もちゃんと返すから……だから……」
「地図はいいよ。母さんが見つけて返してくれた。押入れの中に入ってたよ」
「お母さんが? ……あれ? でも、お兄ちゃん、あの押入れの開け方知ってるのって、お兄ちゃんだけじゃなかったの?」」
「母さんなら開けられるんだよ。体重の重い母さんなら、床に力を入れなくても襖が開くんだ」
「あっ! そうか!」
「それより、切符まだあるんだろ? 有効期限は当日までだからな。使わなきゃもったいない。二人で、どこかへ行こう」
「これからっ!? もうお昼だよ?」
「そう遠くでなくていいんだ。切符を払い戻して新幹線の差額を足せば、ちょっとしたところまでは出られる」
 涼子は呆然としていたが、すぐに笑顔になって、
「うん、賛成っ! そうと決まったら、すぐ行こ。今すぐ行こっ!」
 言うが早いか、もう駆け出している。この現金さに、僕は苦笑を禁じえない。

 僕はふと、それまで眺めていた景色を見渡した。
 そこは、どこもかしこも太陽の光を受け、きらきらと美しく輝いている。
 きっと、時の流れに見放されたこの街は、こうやって輝き続けるのだろう。このまま、ずっと……。

(いつまでも変わらないものだからこそ価値があるんだ……)

 そう言った父さんの言葉が、今ならわかるような気がする。
「お兄ちゃん、何してるのっ!? 早く来ないと置いてっちゃうぞっ!」
「ああ、今行く」
 僕は、涼子の元へ走り出した。
 耳元で風が鳴る。足元で落ち葉が舞う。
 そして気づくのだ。
 ……僕もこの街の輝きのひとつなのだ、と。


 “LEAVE A LIGHT ON” : OVER


 ■コメント
 この小説を最初に書いたのは、かれこれ4年以上前……、私がまだWebサイトを始める前のことでした。
 以前付き合いのあった、Web上の知人へ誕生日プレゼント代わりとして送ったものです。
 これまでは、Webで発表しないつもりでいたのですが、彼との付き合いもなくなってしまったので、あえて禁忌を破り(笑)掲載してみました。

 ちなみに、当時は版権モノのSSでしたが、今回の掲載にあたりオリジナル小説に変更してみました。
 元作品の世界観とは、似ても似つかない内容ですし(笑)

 小説自体は、現在と過去を行ったり来たりする少々難しい内容ですが、これを読んでくださった方の中に、何かを思い残すような作品になっていれば幸いです。

 なお、タイトルはベリンダ・カーライルの名曲「LEAVE A LIGHT ON(邦題:輝きのままで)」から取りました。

2007.1.7


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