第1章

「姉さん……これから空いているかい……?」
 学校から帰って自宅でくつろいでいたわたしは、妹の麻耶(まや)のその言葉に須臾の間、思考がフリーズしてしまった。
 決して人付き合いがいいとは言えない彼女から、こんな風にお誘いがあるなんて夢にも思っていなかったからだ。
「どうだい……? たまには、二人で外出もいいだろう?」
 麻耶は、ベッドで寝そべるわたしを見下ろす格好で言った。
 そのぞんざいな口調は、いつものことだ。
「う、うん……」
 了承したのではない。答えあぐねたのだ。

 勘違いしていただきたくないのだが、私は別に麻耶のことを嫌っているわけではない。むしろ、とても好いていると言ってもいいだろう。
 彼女だけじゃない。
 私には3人の妹弟がいるが、その誰とも仲が良かった。
 だから、麻耶とのお出かけはこっちからお願いしたいくらいなのだ。いつもは、わたしから彼女を引っ張り出すくらいだし……。
 でも……今日は少し事情が違っていた。
「ごめんね、麻耶。今日は出かける気分じゃないの」
 わたしは、なるべく穏やかに言ったつもりだった。
 しかし、返ってきた麻耶の声は冷たかった。
「そうか……残念だよ。姉さんは、私といるより寝ている方がいいと言うんだね……」
 わたしは頬が引き攣った。
 この氷のような冷たい口調……怒ってる、麻耶が怒っている!
「ところで姉さん、珍しい秘薬を手に入れたんだ……。今、姉さんが左手で隠している物の代わりに、これを飲んでみてくれないか? 味は保障するよ……」
「わかった、わかりました! 行きますよっ」
 何でバレたんだ?
 学校から帰った後、こっそりビールを盗み飲みするのが、ここ最近の楽しみだったりする。
 未成年なんだから、もちろんイケナイ事な訳で……まぁ、弱みが発覚した以上、言うことを聞くほかあるまい。

 わたしと麻耶は家の外へ出た。
 まだ初夏、それも夕刻だというのにうだるくらい暑い。
 薫風はすでに充分な湿り気を帯びて、二人の間を通り過ぎて行く。
 暑いのが事のほか苦手なわたしは、レースのついた淡いブルーのカットソーに、短めのティアード・スカートという出で立ちだったが、それでも肌には汗がにじんでいた。
 対象的に、麻耶は露出度を極力抑えた黒系の服。
 それなのに、涼しい顔で斜陽が射し込む街中を歩いているのは、一体どういうことか。
「ねぇ、暑くないの?」
「……ああ、今日はニンフ(水の精霊)が私を守ってくれているからね」
 そう言って、彼女は私をはぐらかす。これはいつものことだ。

 麻耶が向かったのは、わたし達の家からさほど離れていない一軒のこぢんまりとした喫茶店だった。
 お店の中は薄暗く、キャンドルの明かりがほのかに灯っているだけで、他に照明と呼べるものが何もない。
 ただ、玄関近くに置いてある電話の周囲には、フリージアが活けられて、とても綺麗な香りを漂わせていた。
 いかにも、彼女が好みそうなお店だ。
 麻耶の勧めに従って、わたしは奥のボックス席に着いた。
「よく、こんなお店知ってるわねぇ。誰と来てるの?」
 こちらから先手を打ったつもりだったが、それは全く効果がなかった。
「姉さん……私に、話があるんじゃないかな……?」
「な、なんでよ……?」
「……ここのところ、元気がないようだったからね……」
 彼女はテーブルに肘を立てて、手を組み、その上に顎を乗せてこちらを見据えている。
 うぅ……そんな目で見ないで。
 確かに、ここ数日、わたしは落ち込んでいた。
 麻耶は一見そっけなく見えるが、人の感情にはとても敏感だ。誰かが塞いでいたりすると、真っ先に声をかけるのも彼女だったりする。
 そんな彼女が、わたしの落ち込みように気づかないわけがない。
 今日のお誘いも、彼女なりの優しさなのだろう。
 でも……遅すぎる。アレは、もう手の施しようがないところまで進んでしまったのだ。

 ♪ ♪ ♪ ♪

 わたしはその日、学校から家までの道すがら、アーケード街をぶらぶらしていた。良く晴れた午後で、このまま帰宅するのはもったいない気がしたからだ。
 若者向けのカジュアル・ショップの前を通り過ぎたあたりで、
「お姉さま〜〜っ♡」
 と、わたしの背後から呼びかける声があった。
 振り向く暇もなく、その誰かはわたしに衝突するみたいに抱き付いてきた。
 顔を見るまでもなく誰かはわかる。こんなことをするのは妹の詩乃(しの)くらいだ。
「詩乃っ。危ないじゃない!」
「もう、お姉さまったら照れちゃって。でも、こんなところで逢うなんてスッゴイ偶然。やっぱり、運命が私たちを引き寄せてしまうのね……♡」
 と、彼女は、嬉しそうにわたしの腕を取ってくる。
 周囲の目を気にして、わたしはちょっと困ってしまった。
 彼女は終始が万事こんな調子。
 姉のわたしや麻耶より背が高く、ファッションにも気を遣い、スタイリッシュな会話も得意。そんな詩乃は自慢の妹なのだが、時々こうして突拍子もない行動に出るのが玉にキズだった。
「お姉さま、ここで何してらしたの?」
「ただ、ぶらついてただけ。詩乃は?」
「ウインドウ・ショッピングってところかしら。欲しいものはあるんだけど、お財布がピンチなの。お姉さま、私にプレゼントしてくださらない?」
「詩乃まで、瀧(たき)みたいなこと言わないで」
 わたしは苦笑した。
 瀧とは、我が4兄弟の末っ子で唯一の男のコだ。末っ子らしく甘えん坊で、いつも子犬のようにわたし達について回っている。
 そんな彼がとても愛くるしくて、わたし達はつい事あるごとに世話を焼いてしまうのだった。あの麻耶でさえ、瀧の前ではすこぶる愛想のいいお姉さんなのだ。
 ちなみに、兄弟の年齢による序列は、わたし、麻耶、詩乃、瀧の順となる。

「でも、詩乃のほしいものって何?」
 わたしは、詩乃に視線を送って訊いた。
「私が注目してる宝石細工師の新作。独特なファセット・カットで有名な人なのよ。……ああ、あのハート・シェープ・プロフィール・カットされたルビーは最高だわ」
 なんのこっちゃ……。
 詩乃の目はすっかり陶酔している。もっとも、同じ女のコとしてはわからないでもないけどね……。
「あっ、そうだわ。同じお店に、お姉さまのお友達がみえてたわよ」
「宝石店に? てことは、静香のヤツだな」
 三嶋静香(みしましずか)は、わたしのクラスメイトで、大の宝石好きで有名な娘だ。
 しかし、本物は高くて手に入らないので、今は価値の低い鉱石だけを収集して満足しているらしい。
 彼女とは今年の春に会ったばかりだが、すでに親友と呼んでも差し支えないくらい、仲良しになっていた。
 ただ、血の気が多いというか、やけに喧嘩っ早いところが気になるといえば気になる。ちなみに、格闘技も彼女の趣味だ。

「でも、その人ちょっと変だったの。なんて言うか、タメ息ばかりついてショー・ケースを眺めているのよ」
「静香が? あいつでも悩むことがあるんだ」
 本人が聞いたら怒り出すだろう。
 しかし、わたしがそう思うくらい竹を割ったようなサバサバしたヤツなのだ。とても悩み事を抱えるとは思えない。
「あんまり挙動不審だから、てっきり強盗でもするのかと思っちゃった。店員さんも変な目で見てたし」
 詩乃が深刻そうな声で言う。
 わたしはなんだか心配になってきた。まさかとは思うが……。
「詩乃、ごめん。先に帰ってて」
「あぁん、待って、お姉さま〜っ!」
 切なそうな声で引き留める詩乃を断腸の思いでその場に残し、わたしは宝石店へと走った。
 けれど、わたしが着いた時には誰もおらず、店内は宝石たちが無機質な輝きを放っているだけだった。
(取り越し苦労だったかな……)
 そう自分を納得させると、来た道を戻った。
 途中、追いかけてきた詩乃と合流したわたしは、置いてきぼりを食らわせたお詫びにクレープをおごる羽目になってしまった。

 ……取り越し苦労。そう、この時はそれで済んだのだ。この時までは……。

 ♪ ♪ ♪ ♪

「……どうかしたのかい……?」
 麻耶の声で、物思いに耽っていたわたしはハッと我に返った。
 いつの間にか、手元にシナモンのアイス・ティーが置かれている。オーダーどころか、グラスを置いて行ったことすら気づかなかった。
「シナモン・ティー……好きだよね、姉さん」
「う、うん……」
 いささか拍子抜けしながらも、シナモン・スティックでグラスをかき回す。この独特の香ばしい香りが、わたしは好きだった。
 ベースとなっている紅茶は、無難にダージリンといったところか。
「……で、その三嶋静香って娘が、姉さんを悩ませているのかい……?」
 わたしは、飲みかけていた紅茶を危うく吹き出すところだった。
「わ……、わたし喋ってた?」
「……どうかな……」
 麻耶は、肯定とも否定とも取れる言い方をして目を細めた。
 この娘は本当に不思議だ。時々、心の中を見透かされているんじゃないかと思うことさえある。
「でも……詩乃からそんな話を聞いただけで、姉さんが落ち込んだりするとは思えないね。まだ……何かあったんだね?」
「うん。それからしばらく経ってのことなんだけど……」

 ♪ ♪ ♪ ♪

「お姉ちゃん、ちょっといいですか……?」
 わたしが珍しく(?)母を手伝って夕ご飯の支度をしていると、弟の瀧がキッチンに顔を出した。
「折り入って、お話があるんですけど……」
 瀧は、普通こんな回りくどい言い方はしない。常に直球勝負で、変化球なんて思いつきもしない子だ。
(こりゃ、なんかあったな……)
 そう、わたしは直感して、母に後を頼むと二人で部屋に向かった。

「実は、お姉ちゃんに話そうか迷ったのですけど……」
 彼は、上目づかいにこっちの様子を窺ってくる。
「瀧らしくないわね。今更、あんたが何やったって驚きゃしないわよ。今度は何を壊したの? わたしの万年筆? それともケータイ?」
「そ、そんなんじゃないもんっ! ボクが壊したのは、時計……じゃなかった……っ、お話っていうのは、三嶋さんのことなんです」
「静香?」
 わたしは、ドキッとした。
 姉弟二人から、立て続けに静香の名前が出ようとは思っていなかったからだ。
「ボク……お姉ちゃんが学校行ってる時のことは、なぁーんにも知らないから、お友達にお話を聞いて、お姉ちゃんのスクール・ライフを調べようって思ったの」
 ……また、しょーもないことを……。
 わたしはそう思ったが、とりあえず口には出さないことにした。

「それで、お姉ちゃんが一番の仲良しの三嶋さんに会おうと思って、学校まで行ったんだけど、その……三嶋さん、すごくシンコクな顔してて、声かけられなかったんです」
 そういえば今日、静香のヤツ、用事があるとか言って先に帰ったっけ。
「三嶋さん、詩乃ちゃんがよく行く宝石屋さんに入って行きました。それで……三嶋さん、おっきな宝石を……二つも買って行ったんです」
「宝石? あいつ、よくそんなお金あったわね……。いつもは、石っころみたいな鉱石しか買わないのに。何を買ったかわかる?」
「ボクが調べたところによると、シトリンとクリスタルっていう宝石でした」
 クリスタルとは水晶のことだ。けど、シトリン……?
 あとで詩乃に確認したところによると、黄水晶の意味らしい。どちらも宝石としての価値は低いが、良いものになれば何万円もする。当然、彼女のお小遣いで買える代物ではない。
「三島さん、お店を出たあと……年配のオトコの人と歩いて行ったの。……ねぇ、お姉ちゃん……ボク、良くないことが起こってる気がするです」
 わたしは、しばし何と答えていいかわからなかった。
 しかし……到底、信じられない話だ。静香が……援交……?
「ボク……こんなお話、お姉ちゃんにしちゃイケナかったかな?」
「そんなことないわ。明日、静香に会って聞いてみる。良く話してくれたね」
 わたしが瀧の頭を撫でてあげると、彼は嬉しそうに目を細めた。
(親友なんだもの。話し合えば、何があったのか打ち明けてくれるよね)
 わたしは、そんな風に軽く考えていた。でも……事はそう簡単なものじゃなかったのだ。


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