忘れ得ぬ君に・前編

「な、なんだ……こりゃっっ!?」
 ちょっとした外出から戻った僕の眼前に飛び込んで来たのは、無茶苦茶になった自分の部屋だった。
 本棚に入れられた本が、机の引き出しに入っていたものが、すべて床にぶちまけられている!
 一緒にいた咲耶が何か言っているが、そんなことは耳に届かなかった。
 誰が? 何の為に……? そして、どうやって? この部屋は、完全に密室だったはずなのに!!

 これは僕と12人の妹をめぐる、ちょっとしたトラブルの物語だ。
 けれど、別れの物語でもあり、愛の物語でもあり、希望の物語でもある。
 しかし、この物語を完全な形で語るには、時間を少し巻き戻さなければならない。
 そう……僕が柄にもなくセンチメンタルな気分に浸っていた、あの時まで。


〜忘れ得ぬ君に〜


(13時7分)
 柔らかな南風が頬を撫でて、僕は机から顔を上げた。
「もう、こんな時間か……」
 気がつけば午後の1時である。時間が経つのは早いと言うが、僕の場合、時間の感覚自体がなくなっていたようだ。
 それだけ没頭していたということだろう。
 僕は、それまでずっと見続けていたアルバムを閉じた。僕と、12人の妹たちと、両親の成長を記した記念帳。
 そんなものを何時間も見続けていたのだから、思わず苦笑してしまう。
 でも、今日くらいはいいだろう。
 だって、明日を過ぎたら、次にいつここへ帰って来られるかわからないのだから。

 僕の元へフランス行きの話が届いたのは、つい先日のことだった。向こうで、僕の描いた絵が認められたらしい。
 幼い頃から画家になることが夢だった僕にとって、それは紛れもない吉報だった。
 しかし……夢の実現は、時としてその代価を求められるものである。僕は自分の夢と引き換えに、家族との別離を余儀なくされた。
 数年、いや長ければ十数年、僕は日本に帰って来られないだろう。
 これは、片時も離れず僕を慕ってくれた妹たちにとっても辛い選択だった。
 でも、ここで申し出を断れば、こんなチャンスは二度と来ない。
 僕がフランス行きを決定するまでに、時間はかからなかった。

 僕は、タメ息を一つつくと、見ていたアルバムを机の一番下の引き出しにしまった。
 この引き出しはサイズが大きめなので、数十冊に達しているアルバムを入れておくにはとても便利だ。
 僕は椅子から立ち上がると、部屋をぐるりと見回してみた。
 見事なまでに何もない。引越しの為に片付けてしまったのだ。
 机が一つに、僕の背丈以上ある本棚が一つ。あとはクローゼットがあるだけ。
 僕は、開けたままになっていた窓を全部閉めると、部屋を出た。

 隣の部屋では、アーム・チェアに座って鞠絵が編み物をしていた。
 窓から涼しげな風が入っていて、実に心地よさそうだ。
 飼い犬のミカエルも、鞠絵の足元でうたた寝している。
 開いたままになっているドアから手を挙げてみせると、彼女は微笑み返してくれた。
「いよいよ、明日ですね」
 と、優しいアルトの声で鞠絵が言う。
「ゴメン、みんなには迷惑かけるけど……」
「気になさらないでください。兄上様が決めたことですから」
 彼女は、彼女の笑顔のままそう言った。

 鞠絵は限りなく優しい。時には、その優しさゆえに自分自身を傷つけてしまうほど。
 今の僕には、その優しさが少しだけ辛かった。
 せめて泣いてくれたら、行かないで欲しいと言ってくれたのなら、僕の決心も変わったかもしれないのに……。

 そう。僕だって辛くないわけじゃないのだ。
 妹たちと別れることが。


(13時15分)
 そのまま回廊式になっている廊下を進むと、部屋から出て来る咲耶とばったり顔を合わせた。
 彼女は僕の顔を見るなり、口元で人差し指を立ててみせた。
「いま寝かしつけたばっかりなの。大きな声出しちゃダメよ、お兄様」
 部屋を覗くと、雛子と亞里亞がすやすやと寝息を立てている。
「まさに天使の寝顔だな」
 と僕が言うと、
「あら、お兄様、天使を見たことあるの?」
 と、咲耶が憎まれ口を叩いた。
 反論しようとすると、いきなり腕をつかまれ、
「行きましょう、お兄様。天使さまを起こしちゃ可哀想だもの」
 と言って、僕を連行して行った。

「本当に、明日でお別れなのね」
 出し抜けに咲耶が言った。
「ごめん」
「そうやってすぐ謝っちゃうところは、お兄様らしいわね。でも、謝る必要なんてないのよ。そりゃ私だって寂しくないわけじゃないけど、こればっかりはね……」
 咲耶は、僕にウインクしてみせた。
 僕がいなくなって一番大変なのは彼女だろう。妹たちの中では最年長だし、実際、雛子や亞里亞の面倒はほとんど彼女が見ている。
 これからは、他の妹たちにも頼られることが多くなるはずだ。
 僕はもう一度、心の中で彼女に詫びた。
 ……そして同時に、身勝手な自分を恥じた。

 玄関のところまで来ると、何やら外できゃっきゃっとはしゃぐ声がしている。
 咲耶と二人で庭に出てみると、そこにいたのはやはり衛と四葉、それに鈴凛だった。
 どうやら、ホースで水撒きをしているようなのだが……。
「あっ、やったデスね、衛ちゃん! こっちもお返しデスっ!」
「うわっ、冷たいっ」
 これじゃ、水の掛け合いじゃないか……。
「どういうことだ、鈴凛」
「あはは……。アニキがいない間、バイクがほったらかしになっちゃうでしょ? だから3人で整備をしてあげようとしたんだけど、最初の洗車の段階からこのざまで……」
「おいおい……」
 別の意味で、フランス行きが不安になってきた……。
 ふと家の方を振り返ると、開いた窓から鞠絵の後ろ姿が見える。
「2人とも、鞠絵に水をかけるなよ」
「はーい」
 返事だけはいいんだが……。
 3人をそこに残して、僕と咲耶は庭を回った。

 その直後……、
「きゃぁっ!?」
 鞠絵の悲鳴だ。
 どうやら、忠告も虚しくやらかしたらしい……。


(13時21分)
 庭の一番日当たりのいい場所に、花穂が作った花壇がある。今日のように天気のいい日は、きっと花の世話をしているだろう。
 そう思って行ってみると、案の定、小さな頭がぴょこぴょこと跳ねていた。
「あ、お兄ちゃまと咲耶ちゃん」
 花穂が気づいて、僕たちに手を振ってくれる。 
「随分と精が出るね、花穂」
「えへへ、お兄ちゃまの為にあげようと思っていたお花をずーっと大切に育ててたの」
「オレの為に?」
「そうだよ。はい、これ」
 そういうと、花穂は摘みたての花を僕に差し出した。
 コバルトブルーの可愛い花弁をつけた花だ。
「忘れな草だよ、お兄ちゃま」
「忘れな草……?」
「うん」
 花穂は、なぜか少し哀しそうに笑った。
「ありがとう、大事にするね」
 僕が頭を撫でてあげると、花穂は気持ちよさそうに目を細めた。

「にいさまー!」
 不意に僕のことを呼ぶ声がした。
 振り返ると、家のキッチンから白雪と可憐が手を振っている。
「今日は、にいさまの大好きなビーフのディアブル・ソース煮ですのよ。いーっぱい、お腹空かせて待っててね」
「お兄ちゃん、可憐も手伝ってるの。すっごく美味しくなるから期待しててね」
「ああ、期待してるよ」
 言われなくても、ちゃんとわかってる。二人の作った料理が美味しくないはずがない。
「うふふ。モテモテね、お兄様」
 咲耶が冷やかすように言った。


(13時35分)
「そういえば、春歌と千影の姿が見えないけど……」
 自室へ戻る途中、僕は咲耶に訊いた。
「二人なら、今日はお買い物に出てるわ。欲しいものがあるんですって。そろそろ帰って来るんじゃないかしら」
「そうか、安心したよ」
 最後の日くらい、妹たちの顔をちゃんと見ておきたいしな。
 けど、その安心は直後に破られることになる。

「な、なんだ……こりゃっっ!?」
 自室のドアを開けた僕は、目の前の光景に唖然としてしまった。
 本棚に入れられた本が、机の引き出しに入っていたものが、すべて床にぶちまけられている!
「お兄様、泥棒にでも入られたの?」
 咲耶の冗談とも真剣とも取れない言葉は、僕の耳には届いていなかった。
 慌てて部屋の中を見回してみる。
 クローゼットは開け放たれているものの、服は無事だ。
 本棚はなぜか下の方に入れていた本だけが抜かれて、床にばら撒かれている。
 机の引き出しに入れていたものも、同様に床に放り出されていた。

 一体、誰が何の為に……?
 僕の眼前はブラック・アウト寸前だった。
 その時、千影と春歌の帰宅する声が聞こえてきた。


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